聞法の方法   

どうしても、どうか(お願いです)
「今」を生きて下さい。
時計の秒針のようにとても早い、早い「今」です。
追いつけないのではありませんか?
もうすでに後手(ごて)ですね。
後手、後手になっていませんか?
それを影(かげ)といいます。「今」の影です。
ただ「今」あるだけです。
「いま」という余裕もありませんよ。
この方法でいいのかなあ?と思ったりしたらだめですよ。
方法もなにも、ただ、あるだけです。
本当のことは、その思い以前にあるのですから。

どんな事があっても気持ちも感覚も「あるがまま」にして下さい。
「あるがまま」に御(おん)まかせる事です。
もうすでに「あるがまま」なのですから「あるがまま」という思いもなく、
「あるがまま」に御おまかせです。

如来とか、阿弥陀さまとか、
探し求めてはいけません。
もうすでに如来さまにつつまれているのに、探すなんて大変失礼ですよ。
探し求めれば求めるほど逃げていきます。本当です。  
 の「あるがまま」に、御まかせだけです。
「みだ仏は、自然(じねん)のようをしらせん料(りょう)なり」
(「自然法爾章」真宗聖典602頁 末燈鈔5)
(阿弥陀仏とは「自然」ということを知らせようとする
はたらきそのものなのです。)

念仏は如来さまへこちらから差し上げる、お供えもののような念仏で
あってはなりません。

念仏は如来のものです。人間が作ったものではないのです
(阿弥陀如来の誓われたものです)。

念仏は如来の行(ぎょう)です。
大行(だいぎょう)といいます
(『教行信証』「行巻」真宗聖典157頁)

如来からいただいた念仏。如来回向の念仏。

念仏は如来の我々に対しての命令です。
(「本願招喚の勅命」といいます 真宗聖典177頁)

南無せよ。純粋に。正直に。「南無阿弥陀仏」と、もちろん称えますけれども、
いくら私の口から出ても、それは如来のこころが私の口をとおして出ているんだと、
いただいていくのです。

念仏は「私を助けるための如来の行である」事を疑いなく聞き入れていくのです。

そうしますと「念仏は如来のものだ」「如来さまの命令だ」
「私を助けるための如来の行である」等、思いながら常に心得ようとして
念仏していることになります。
そのように自分を働かせる念仏、わが身に足していくような念仏になっていくのです。

そういう念仏を考える人のことを

「他力のなかの自力のひとびととなり。」
(真宗聖典580頁、親鸞聖人御消息集(広本)16)

「自力作善(さぜん)のひと」(『歎異抄』の第3章 真宗聖典627頁)といわれて
「弥陀の本願にあらず」と、されているのです。
「弥陀の本願にあらず」というのは何のことかというと、
それは念仏のこころに添うものではない、という意味になります。

しかし、つづいて「しかれども、自力のこころをひるがえして、
他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。」と、あります。

そこで大事なのは「自力のこころをひるがえして」という
「ひるがえす」ということです。

よく「自力の心を捨てなければならない」という言い方をします。
自力の心を捨てるという場合に、この捨てるのも自力なんです。
捨てたことになりません。
捨てよう、捨てようという事柄が、いよいよ捨てられないのです。
だから捨てよう、捨てようとして捨てられるものではないのです。
あるいは眠ろう、眠ろうとする意識が、
いよいよ眠らせないというのと一緒です。

ここに「ひるがえる」ということがどうしても求められて来ます。
この自力の心をひるがえすということは一体どういう意味なのか。

真宗の方で昔から伝えられている話が有ります。

それは墨を洗って白くしようというものです。
墨をお湯で洗おうと水で洗おうと、たわしでこすろうと白くなりません。

自力というのは、一生懸命、墨を白くしようという有り様と同じなのです。

「ひるがえす」というのは、墨は洗っても白くならないということに
気づいた時に、洗おうとする心は、おのずから、やみます。
そういうことを「ひるがえる」というのです。

「おのずと」です。無理やりにやめるのではありません。
疲れたからやめるのでもありません。
また、もしかしたら無駄かもしれないと疑いを残しながら
やめるものでもありません。
これはどこまでいっても、きりのないことである、と了解できた時に、
おのずと、やまるということが起こってきます。そこが大事なのです。
「おのずと」という、この「おのずと」というところが大事なのです。

その「おのずと」いうところを親鸞聖人は「自然(じねん)」という
言葉で表しています。親鸞聖人がこの自然ということで言いたかったのは
「おのずと」ということです。無理やりではないということを
言うために「自然」という字を使います。

「自然」というのは
ともかくも行者の「はじめて、はからわざるなり」
(「自然法爾章」真宗聖典602頁 末燈鈔5)
という言い方をするのです。

この「はじめて」というこういう言い方もですね、微妙な言い方なのです。
今までやめるという場合には、無理やりにやめるか、やめさせられるか、
あるいは嫌になってやめるか、疑ってやめるかということはありました。

しかし、今「はじめて、おのずからやむ」ということが起こったのである、と。
この「はじめて」というこの使い方ですね。
我々の立場からは出てこない事柄が初めて出てきたという使い方ですね。
それがこの「自力の心をひるがえす」ということになります。

ひるがえるというは「回心(えしん)」と表してきたのです。
よく聞く自覚とか目覚めるとか信心とかいうのは、
「回心」ということに関係していることなんです。
「回心ということ、ただひとたびあるべし」(歎異抄第16条 真宗聖典637頁)
「回心」は、一辺は、なければならないことなのです。

(注意)①が出来れば、②はおのずから出来ます。
 ①がわかりにくい場合は、
 ②からチャレンジして下さい。

(注意)人としての道徳常識は、心得てのことです

参考
(東本願寺出版部 同朋選書26『真宗に学ぶ』著者 平野 修)