皆様からのご意見   

●ホームページを読みました。何度も、何度も読みました。私にとっては、とても難解でした。理解しえたとは、とても云えません。どうやら、本質はとても単純で簡単な事のように推測は出来ます。問題は、実践方法です。実践方法についても、言葉で言いうる事は、親切に示されているとおもいます。今を生きる、あるがまま。確かに頭ではその通りと理解はできます。でも具体的に何をどの様に、努力すればよいかについては全く、見当がつきません。まづ最初に何だけをすればよいのかアドバイスをお願いできないでしょうか?非才で愚鈍な者なので、難しいことはできません。単純な一つの事だけを、守っていきたいと思っています。

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●「あるがまま」にあることを追求し、その遍歴を率直に記録した井上幹堂氏ホームページ。『「あるがままになろう。そのまま、そのまま」と自分に言い聞かせ、時の早さに負けないように集中して「これでいいんだ、これでいいんだ」と、なにものにも思いを寄せず瞬間瞬間を切り落としていく努力、今に遅れない努力でした。』。そして、『フッと思った時は、もう「いま」はありません。もう何万分の一秒が過ぎさってしまっているのですから。つまり、「いま」は知識では捕まえられない、認識できないということです。「いま」とは、いま、このように「そのものになって」体感しているということです。身体が知っている。理解ではなく、体感なのです。』と安心の境地を伝えています。真摯に「今」を追求する氏のメッセージは、私たちの日常の工夫に大いなる勇氣を与えてくれます。

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●「悩みながら、そのままにしていて、それが苦にならない」---このお言葉に、わたしの中の何かが、ぴたっと出会った。理屈にできないのですが、そんな心持がして、このメッセージを書かせていただこうと思い立ちました。『歎異抄』に出会ったのは20年ほど前のことでしょうか。親鸞の発言よりも親鸞の沈黙がわたしをとらえます。寺へ聞法に通ったこともありますが、いまは静かに慄いていたい気がします。「自力も他力もないのです」「救われるのが私の仕事」とは逆説をはらんで絶対他力の境地を、教えられたことばと、ありがたいです。南無阿弥陀仏

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●通信手段が異常に進歩いたしましてもコミュニケートするものが欠けているのではないか個人にも社会にも、そう思っていましたが素晴らしい文章に出会えた喜びで記念にメールさせていただきました。信を求める、いや自我との格闘の日々の記録に共感し。法に触れる人が一人でも多くと願うものです。人間の心に生起する「思いを自分と思う」無明を払いのけるのは至難のこと思いに執着するその心をはねのけようとするのもまた心この地獄のような苦闘の日々にピリオドを打って平安の生活に落着するその歩みを率直に記録していただいたその試みに敬意を表したいと思いました」また覗かせてください。南無阿弥陀仏

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●(部分的に斜め読みしただけですが、「人間は一生を通して誰になるものでもない自分になるのだ」心理学的にも、キリスト教的にも、同感です。そして、私ももっと阿呆になりたいと思いました。

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●率直に感想を言いますと、たいへん驚きました。こんなひとが真宗大谷派のぼんさんをしていたのか?と何か私もうれしくなりました。井上さんの自分自身が経験されたことを赤裸々に表現されていること、私も大変勇気つけられました。私には井上さんがどんな経験をされたのかは、実際のところ知る手だてがありません、しかし「いま、信頼して在るのだ。」という深い信頼する心の読みとることができました。

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